父と息子の一手

田中家

新潟の冬は長く、厳しい。家の窓を叩く冷たい風の音が、田中誠一の心を静かに落ち着かせる。単身赴任の身で久しぶりに帰省した彼は、家族と過ごす時間を大切にしていた。

夕飯のあと、リビングにはぽつりと将棋盤が置かれていた。誠一は中学生の息子、亮太に向かって笑いながら言った。

「久しぶりに勝負しないか?」

「え、将棋?お父さん、弱いじゃん。」

亮太は少し茶化すように答えたが、その手は自然と駒箱に伸びていた。将棋は亮太が幼い頃、誠一が手ほどきをしたものだ。家族の時間が減るにつれて一緒に指す機会も少なくなっていたが、今では亮太のほうが熱心に取り組んでいる。


二人が盤を挟んで向かい合う。こたつの温かさが部屋を包む中、最初の一手を指したのは誠一だった。慎重に角道を開け、亮太の表情を伺う。

「最近はどんな戦法を勉強してるんだ?」

「矢倉とか、ちょっと穴熊も試してるよ。YouTubeの講座で研究してるんだ。」

亮太がさらりと言うその言葉に、誠一は内心驚いた。自分が教えた基礎を超えて、亮太はすでに自分だけのスタイルを築きつつあるようだった。


序盤は互角の攻防が続いた。亮太は自分の持ち時間を惜しむように使い、誠一の手をじっくり読みながら一手一手を繰り出す。その集中力には父親として感心せざるを得ないものがあった。

中盤、亮太が小さく呟いた。

「将棋って、難しいけど楽しいよね。」

「どうしてそう思う?」

誠一が問い返すと、亮太は盤面を見つめながら言った。

「だって、どんなに悪い状況でも、一手で流れが変わることがあるじゃん。それってすごいことだなって思う。」

その言葉を聞いたとき、誠一は胸の奥で何かが動くのを感じた。仕事でのプレッシャーや、家族に対する申し訳なさが少しだけ軽くなった気がした。

「そうだな、人生も似てるかもしれないな。」

亮太が顔を上げる。

「人生も?」

「うん。仕事で失敗したり、辛いことがあっても、次にどんな一手を指すかで結果は変わる。逆に、何もしないで指すのを諦めたら、そこで終わりだ。」

亮太はしばらく黙っていたが、小さく頷いた。


勝負は終盤に差し掛かり、亮太が優勢だった。誠一の玉は逃げ場を失い、ついに詰みが確定した。

「負けた!」誠一は笑いながら頭をかいた。

「やった、勝った!」亮太は嬉しそうに拳を突き上げる。

その顔を見ながら、誠一は亮太の成長を強く実感した。ただ将棋が強くなっただけではない。目の前の困難に立ち向かい、自分なりの答えを見つける力が確実についてきている。


その夜、亮太は布団に入りながら誠一に言った。

「お父さん、今度また東京に行く前に、もう一回勝負しようよ。次も負けるかもしれないけど、もっと強い手を考えてみるから。」

誠一は微笑みながら頷いた。

「いいぞ。その時までに、俺ももう少し勉強しておく。」

将棋盤を挟んで語り合った時間。それはただの娯楽以上のものだった。息子との絆を深め、自分の生き方を見つめ直すきっかけにもなる。誠一は再び東京に戻る日が近づいていることを思いながらも、この時間が心に残ることを確信していた。

どんな局面でも次の一手がある。それを教えてくれたのは、誠一自身が見逃していた家族との将棋の時間だった。

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