それは10年前の冬、まだ美咲が小学校5年生、亮太が幼稚園児だった頃のことだった。新しい家を購入して間もない田中家は、夢見たマイホームでの生活を楽しんでいた。誠一も妻も、家族のためにがむしゃらに頑張っていた時期だった。
ある日の夕食後、リビングで新聞を読んでいた誠一が、ふとため息をついた。その音に気づいた妻が台所から声をかける。
「どうしたの?」
誠一は少し言いにくそうにしながら、封筒を手にして言った。
「会社から辞令が出た。東京本社への異動だ。来月から単身赴任だってさ。」
妻は驚いた顔をした。
「単身赴任…?いきなりすぎるわね。」
「そうなんだ。子どもたちがまだ小さいし、せっかく新しい家を買ったばかりだしな…正直、俺もどうしていいか分からない。」
その言葉に妻は一瞬黙り込んだが、やがて静かに言った。
「でも、それが会社の決定なら、受け入れるしかないわよね。」
「分かってる。でも…お前や子どもたちを置いていくのは、やっぱり気が引けるよ。」
その夜、夫婦は子どもたちが寝静まった後、こたつで向き合った。
「家族を一緒に東京に連れていくことはできないのかしら?」妻が聞いた。
「それも考えた。でも、今は住宅ローンも始まったばかりだし、転校させるのも大変だろう。お前が新潟で支えてくれるからこそ、俺も安心して働けると思うんだ。」
「…そうね。でも、私、一人で家を守れるか不安だわ。」
その言葉に、誠一はそっと妻の手を握った。
「大丈夫だよ。お前はしっかりしてる。それに、週末は必ず帰るつもりだ。家族の時間は少なくなるけど、その分、濃い時間を過ごせるようにしよう。」
妻は小さくうなずいたが、その目には不安がにじんでいた。
翌日、誠一は子どもたちに単身赴任の話を切り出した。最初に反応したのは美咲だった。
「お父さん、東京に行っちゃうの?ずっといないの?」
「ずっとじゃないよ。週末には帰ってくるし、電話だってできる。」
「でも、家にいないのって寂しい…。」美咲は小さな声で言った。
一方、亮太は状況を完全に理解しているわけではなさそうだったが、美咲の悲しそうな顔を見て、「お父さん、僕たちのこと忘れない?」と不安げに聞いてきた。
「忘れるわけないだろう。」誠一は亮太の頭を撫でながら言った。「お父さんが東京で頑張るのも、お前たちとお母さんのためだ。」
その後、家族全員で話し合い、できるだけお互いの時間を大切にすることを約束した。誠一が家を空ける分、家族全員が少しずつ役割を増やし、助け合って生活していくことにした。
そして、単身赴任の日。誠一がスーツケースを持って家を出る朝、妻と子どもたちが玄関で見送った。
「お父さん、東京でも元気でね。」美咲が少し泣きそうになりながら言った。
「お父さん、僕の絵を送るから楽しみにしてて!」亮太は絵を手渡しながら、笑顔を見せた。
妻は最後に一言、「無理しすぎないでね」と静かに言った。その言葉に誠一は深くうなずいた。
「ありがとう。俺が頑張るのはお前たちがいるからだ。安心して待っててくれ。」
家族と別れ、誠一が乗り込んだ電車が動き出すと、窓越しに小さくなっていく家族の姿が見えた。その瞬間、誠一は胸が締め付けられるような思いを感じたが、同時に強く決意した。
「俺がこの家族を支えるんだ。」
あの日の戸惑いや不安は、年月を経て家族の絆を強める力となった。単身赴任の決断が、彼らにとって大きな試練であり、乗り越えるたびに幸せを噛みしめるきっかけとなったのだった。
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